様々な視点から尾道を見つめる。歴史を巡る旅

前回の記事で、尾道市の歴史的な背景をお伝えしました。
改めて、時系列でご紹介すると…

  • 平安時代:年貢米として船で運ぶ際の中継地点として、尾道港が開港
  • 鎌倉・室町時代:商人たちが繁栄を願い、多くの寺院が建てられる
  • 江戸時代:北前船が立ち寄るようになり、港はさらに繁栄。尾道文化が根付く

このように見ると、港の発展とともに、街の発展があったと捉えることができるでしょう。特に北前船の寄港は、尾道の歴史の中でも大きな分岐点であったのではないかと考えられます。

今回の記事では、尾道の歴史や文化が色濃く感じられる「寺院」にスポットを当てて、ご紹介していきたいと思います。

持光寺

まずは、承和年間(834~848年)慈覚大師により天台宗の寺として草創された持光寺です。 永徳2年(1382年)浄土弘伝の沙門善空頓了上人により浄土宗の寺に中興改宗され、以来京都東山・禅林寺(永観堂)の末寺となりました。

JR尾道駅から徒歩10分ほどのところにあり、尾道七佛めぐり(七つのお寺が宗派を超え、尾道を深く知ってもらうことを目的に企画されたもの)の一つとしても知られています。

自分だけの仏様が作れる、にぎり仏体験が人気です

敷地内に足を踏み入れると見えてくるのは、大きな石造りの山門。持光寺裏山の日輪山より切り出された36枚の花崗岩で出来た大石門で、門をくぐると、巨石より発するパワーにより寿命増長されると言われています。

延命門とも呼ばれています

石門の先には、本堂。その周辺には、檀家さんのお墓が並んでいました。

様々な形のお墓があります
小さなお墓は、お子さまを表します

海を見渡すような形で配置されていたお墓も多くあり、港を大切にしていた当時の人々の想いが反映されているように感じました。

お墓一つ見ても、そこにはたくさんの物語があり、どのような背景で、どのような想いを持って、ここに辿り着いたのか… それを辿ることによって、また新たな気づきや発見があるのではないかと思いました。

様々な想いが込められたお墓に別れを告げ、いよいよ本堂へ。中に入ると、五劫思惟阿弥陀如来が優しい眼差しでこちらを見つめていました。

その姿から、アフロ大仏とも呼ばれています

五劫(神仏の世界の宇宙的な時間)というとてつもなく永い間、阿弥陀様が「どうしたら人々を救えるかな」と髪の毛を切るのも忘れて考えてくださったということが、お姿として表されているのだそうです。
とても優しい、穏やかな雰囲気が印象的でした。

加えて、子どもや女性を大切にするといったメッセージも感じられました。

阿弥陀様の背には胎盤や、産道を感じさせるような穴が存在します

まるで、おなかの中に宇宙が存在しているような…
そんな生命の神秘や、物事における事象の必然性が感じられました。
同時に、傍にいらっしゃった愛染明王様からも、子どもを守り抜くといった強い想いを受け取ることができます。

このような寺院の在り方から見ると、尾道は古くから男女が対等な社会だったのではないかと推測されます。加えて子どもに対しても、人権を持った一人の人間として見ていたのではないかと思いました。

今でこそ男女平等の社会や、子どもを尊重する考え方が浸透しつつありますが、遥か昔からそのような考え方が取り入れられ、それが形として残っていることに驚きました。
そういった考え方こそが、尾道の文化が作られていくための原動力になったのではないかと感じました。

浄土寺

次にご紹介するのは、国指定文化財にも指定されている浄土寺です。616年、聖徳太子の創建と伝えられています。

山門からは海が見えます

歴史上では、足利尊氏公が九州平定や湊川の戦いの際に戦勝祈願に立ち寄った寺としても有名です。

浄土寺では、たくさんの鳩を見ることができます。それは、足利尊氏公にまつわる伝説(白鳩伝説)が一つの要因だと考えられます。

浄土寺には重要文化財に指定されている裏門があり、そこに鳩の小屋があります。多い時で250羽、伝書鳩として飼われていたのだそうです。尊氏公を浄土寺まで導いてくれたのも、この伝書鳩だと言われています。

平和の象徴とされ、高貴なイメージのある白い鳩ですが、実は他の鳩よりも全体的に能力が低いのだそうです。その理由は、遺伝子的に何かしらの問題を抱えているものが多く、記憶力や体力的に長距離移動を得意としていないことが挙げられます。(伝書鳩としては致命的ですよね。笑)

それでもその目立つ容姿から、重要な情報を任されることもあったのだとか…。
現代の社会にもありそうな話だなと共感しながらも、それでも健気に頑張る白い鳩を想像し、私自身も勇気をいただきました。

話が少し脱線しましたが…。
そんな古い歴史を感じる浄土寺は、1325年に火災に見舞われることになります。

焼けてしまった寺を再建したのは、尾道の商人 道蓮・道性夫妻。問丸という仕事を営む、20歳前の若い夫婦だったそうです。こんな立派な建物を造ることができるなんて、一体何者なのでしょうか。
尾道商人のただならぬ経済力や、仏さまに対する信仰心が感じられます。

阿弥陀堂と多宝塔
本堂

「本堂」「多宝塔」は国宝、「山門」「阿弥陀堂」は国重要文化財として指定されています。

奥庭には伏見城から移築したといわれる茶室「露滴庵」があります。(こちらも国重要文化財として指定されています)

尾道の茶道文化が感じられる場所です。

境内には、平安時代から江戸時代までの各時代の特徴を表した仏像が揃っています。中でも尊氏公も参詣したとされる「秘仏・木造十一面観音菩薩立像」は特に貴重なもので、33年に一度のご開帳となります。

境内を巡る中で聞いたお話ですが、音・光・香で密教の世界は構成されているのだそうです。人間として生きているとどうしても視覚優位になってしまいがちですが、見えない世界を感じる瞬間を意識的に持ってみると良いのかもしれません。そういった世界にこそ、人生が前向きになれるようなヒントが隠されているのではないかと感じました。

歴史的な視点で尾道を見てみよう

今回は、寺院から歴史的な背景を紐解いてみました。

  • 男女平等の社会
  • 子どもを大切にする風潮
  • 尾道商人の経済力や信仰心
  • 文化を大切にする心

あくまで私の見解となりますが、このようなものが感じられました。

今までは祈願やご利益を求めて、寺院を訪れていましたので…。今回の訪問で、私自身の成長も感じられました。笑

次回は、八朔について言及していきたいと思います。あまりイメージがないという方もいらっしゃると思いますが、尾道と八朔には密接な関わりが存在しました。
是非、お楽しみに。

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