写真家 村上宏治さんに聞く。知られざる 尾道の魅力

2020年から流行が始まった新型コロナウイルスの影響により、働き方や在り方の多様性がより顕著になってきました。首都圏一極集中時代に別れを告げ、地方へと分散していく流れの中に私たちはいます。これをチャンスと言わんばかりに、各自治体はワーケーションやお試し移住などの関係人口の促進に関する取り組みを強化しています。

尾道市も例外ではなく、この大きな社会の流れの中に存在しています。これは私個人の見解となりますが、尾道市はそういった取り組みの中でも、比較的注目を集めている地域だという認識がありました。移住支援制度が整えられていることや、雑誌やテレビなどで移住した人々の活躍を目にする機会が多かったためです。

しかしメディア等で取り上げられる事例はほんの一部で、実際には「移住者が定着しない」といった問題も抱えていました。これは尾道市に限らず他の自治体にも言えることで、2019年から試行された移住支援制度等を活用して移住地に一定期間(数年程度)滞在し、それがひと段落したらまた次の移住地へといった生活をされている方も、中にはいらっしゃるようです。

各地域を巡るようにして生活してきた私と通ずる部分がありますし、生き方の一つとして素敵だと思います。しかし受け入れる地域側からすると、せっかく移住してくれた方々と数年で別れるということは辛く悲しいことです。

移住者が定着しないことの背景はそれぞれだと思いますが、私がそういった方々にお話を伺っていく中で、地域に馴染みきれないこと本当の意味での地域の良さを理解していないことが大きな要因ではないかと感じました。

目に見える部分ではなく、より深い部分まで知ることができれば、その地域にもっと愛着が持てるようになるのでは…と思い、自分自身の取材の在り方も改め、まずはご縁のあった尾道市からより深く見てみることにしました。

写真家 村上宏治さんとの出会い

そのようなタイミングで、「尾道を深く探究している方がいる」と、一人の男性を紹介されました。それは、尾道出身の写真家 村上宏治さんです。東京にいらっしゃる時は料理・車・宝石を中心とした広告撮影を専門とし、多方面でご活躍をされました。

村上さんのスタジオ。著名な方々との繋がりも…

現在は、故郷尾道に帰られ、尾道や瀬戸内海の情景を写真や映像、そして文章を通して多くの方々に伝える活動をされています。(村上さんの活動は、HPよりご覧ください)

経歴や実践されている活動が異次元で、私自身も恐縮してしまいますが…。そんな村上さんに、尾道市の魅力についてお伺いしました。地元の方も知らないのでは…という情報も入手しましたので、是非お楽しみください。

村上さんから見た 尾道

まず初めに、以下の事柄はご存知でしょうか。

  • 三井住友銀行の本店を、当初は尾道に建設する予定だった
  • 住友財閥のお墓がある
  • 一般人の預金率の高さがトップ3
  • 尾道会議が存在した(尾道はどんな所、商売の考え方などを学ぶ)
  • 850年の歴史がある

初耳です…という方も、多いのではないでしょうか。安心してください、私もその中の一人です。笑

このように尾道には、あまり知られていないすごいことが数多く存在します。村上さんのお話の中から私が気になった情報を、いくつかピックアップしてご紹介していきたいと思います。

①開港850年の歴史

今から約850年前、大田庄(現在の世羅)で作られた米を、年貢米として船で運ぶ際の中継地点として、尾道港が開港されました。(ちなみに尾道港を公認の港とするように決定したのは、かの有名な後白河上皇です。)

船の出入りも次第に増えていき、海運業者や商人たちが尾道のさらなる繁栄を願い、浄土寺や西國寺など多くの寺院が建てられました。

商人から信仰を集めた浄土寺。港町の繁栄を表す尾道絵屏風も残されています

②港の繁栄

前項の続きとなりますが、たくさんの船が行き交うようになり、港の整備が行われるようになりました。北前船(北海道から日本海側を通って下関、瀬戸内海を通って大阪に行く船)が立ち寄るようになると、港はさらに繁栄。商人や物資も集まるようになり、尾道ならではの文化も根付いていきました。

③住む場所によって役割が違う 

村上さん曰く、住んでいる場所によって役割が違うのだそう。(家柄や商いなど)
どうやら小路にヒントが隠されているようなので、こちらはまたの機会に詳しく聞いてみたいと思います。

④寺の統合

商人の各家が持っていたとされている寺院。当初は87ヶ所あった寺院は、今は24ヶ所になってしまったのだそうです。寺の檀家の減少や後継者不足で、廃寺や統合がなされて現在に至ります。

アフロ大仏で有名な持光寺

寺院のいくつかを訪れてみましたが、造られた方の想いが色濃く、鮮明に残されていました。
正直な話、お寺を見て面白いなと思ったことは今までありませんでしたが、今回の取材ではその想いがダイレクトに伝わってきたとこともあり、私自身も興味深く見させていただきました。こちらについては次の記事で、詳しくお話していきたいと思います。

⑤茶道の文化

あまりイメージはないかもしれませんが、尾道には茶道の文化が根付いています。その昔、尾道では商業高校がエリートと言われ、算盤・茶道・華道を嗜んでいたのだそうです。

京都がお家元の速水流など寺院によって流派が異なり、現在でもお家元を招いてお茶会が開かれることも。お茶は密談の会議場と言われるほど、商人にとっても欠かせないものだったのだそうです。

⑥八朔発祥の地

こちらもあまりイメージはないかもしれませんが、尾道は八朔の発祥地としても知られています。海上の武士団と言われた村上海賊が持ち帰り、1589年から因島で栽培が始まったのだそうです。

八朔の原木もありました

八朔と尾道との関係性につきましては、後の記事で詳しく触れていきたいと思います。是非、お楽しみに。

⑦数々の名作が生まれる

村上さんの統計によると、CMは約160本、プロモーションビデオは約90本…!文学と映像の街とも言われ、尾道を舞台に数々の名作が誕生しています。

どうしてこのような名作が生まれたのか…
それは、尾道には考えさせてくれる空間(余白)があるということが大きな要因だと考えられます。何とも言えない懐かしさや、ただそこにいるだけで映画の主人公にもなったかのような錯覚に陥ることもあります。

私自身も林芙美子や志賀直哉など、尾道を舞台に描かれた小説をいくつか読んだことがありますが、文字ではなく映像として入ってくるものが多く、想像力を掻き立てられるような作品だったと記憶しています。ロケーションが素晴らしいということももちろんですが、そういった双方における創造力の可能性も、舞台として選択される要因だと感じました。

⑧アーティストを応援するという文化

少女小説の先駆者と言われた横山美智子など、尾道で生まれ育って、江戸で成功を収めたアーティストが多くいらっしゃったようです。

尾道には、才能を持ったアーティストを応援するという、いわゆるパトロンと呼ばれる文化がありました。江戸時代後期の漢詩人 頼山陽は一晩で100万円の支援を受けたのだとか…。驚きの数字ですよね。

村上さん曰く、アーティストとは何かしらの情報を持っている人のことを意味します。パトロン文化に象徴される通り、当初は地元の人との関わりも密接なものだったのだそうです。現在は、地元の人との関わりがないのかと言えばそのようなことはないと思いますが、限られた領域の中で関わり合っている、そのような姿が目に浮かびます。

それに加えて、当時のアーティストは「私はこれ!」といった秀でた作品を持っていることが多かったのですが、現在のクリエイターは周囲から見ると、作品が分かりづらいということもあるようです。人は強い信念が宿るものにのみ、心が動くという性質があります。応援される人になるためには、まずは自分自身を色濃く出していくこと、それが大切なことだと感じました。

今回は、写真家の村上宏治さんに尾道の魅力について伺いました。人情味のある、面白い地域だと感じました。
次回は、尾道の歴史や寺院についてご紹介していきたいと思います。是非、お楽しみに。

関連記事